「失敗」という言葉、あまり好きではありません。何故なら、本当に幼少期の頃から失敗が多くて、そのたびにどれだけ落ち込んだことか。。。
という人生を歩んでくると、50代になった今、今度は失敗することが日常になってくるので、気にならなくなってしまっています(笑)これがいいのかどうかはさておき、、ですが。
かなり昔の話になりますが、時はバブル時代。就職売り手市場ということもあり、私は世間で誰もが知る一流メーカーに就職を致しました。そこで華やかなパソコンのインストラクターになるつもり満々で入社を決めたのですが、配属されたのは、想像だにしていなかった「営業事務」でした。
新入社員の希望通りに配属がされないという、事実をそこで初めて知ることになったのです。また、それまで経験したことのない事務作業というのが、本当に驚くほど出来ず、、、毎日が失敗の連続でした。
電卓をたたくと、毎回違う数字が出るので、どれが正解なのか分かるのに人より何倍も時間がかかりますし、ワープロ(その当時はパソコンはフロアに数台しかなかった)を打ってくれ、と頼まれると、誤字脱字だらけで、訂正⇔修正の行ったり来たりが永遠に続き、コピーを頼まれると必ずコピー機が紙詰まりを起こす、、、という始末。
周りの方たちのテキパキとしなやかに事務作業をこなす姿が眩しくて、毎日毎日「事務が出来る人に生まれ変わりたい」と思っていました。そして、その日の仕事が終わるたびに、自分はなんて能力が低いのだろう、、、なんてバカなんだろう、、、と激しく落ち込んだものでした。
数か月後、支社長に懇願して「営業職」になるも、営業日初日に駐車場から出てすぐに交通事故に遭い、救急車で運ばれて入院。。。もう、目も当てられないくらい落ち込みました。
20代のころ、父親の口ぐせが「きちんとしなさい」だったので、まるできちんと出来ない自分が激しく嫌いでした。
ですから、当然ですが色んな所で「きちんと正確に何かを遂行する」というのが本当に出来ない自分と付き合わなくてはなりません。今、53歳ですから、かれこれ長年こんな自分と付き合ってきています。
ただ、昔とかなり違うのは、「きちんと」することを自分のレベル感でいい、と思うようになってきたことです。世間一般の「きちんと」のレベルと、私が思う「きちんと」のレベルはかなり乖離があるかもしれませんが、許される範囲でいいと、最近は自分に許可を与えています。
父がとても厳しかったので、父のレベルの「きちんと」に合わせると、自分はものすごく「きちんとしていない子」になるのですが、自分の中の「きちんと」のレベルに合わせると、とても楽なんです。
もちろん、誰かに迷惑をかけるような、社会的常識の範囲内ですが、このあいまいな、抽象的な言葉である「きちんと」というのは、人によって基準が全く異なります。
それを、誰かの何かの基準に合わせて「きちんとしないと」と思うと、本当に毎日落ち込みますし、毎日が「きちんとルール」に縛られて、何も楽しくなくなってしまいます。
「きちんと」することも大いに大事ですが、その「きちんと」は自分の中にある自分との約束にすれば、とても生きやすく、そしてポジティブな考え方を取り入れることが出来るのです。
せっかく、生きやすいこの日本という国に生まれているのに、世間一般の「きちんと」に自分を縛り付けていたら、自由がどんどん失われて、生きる活力も奪われてしまいます。
それよりは、多少の「失敗」を自分の中で許してあげて、そんな自分も可愛い!と認めてあげているうちに、それが当たり前になってくるので、少々の失敗で落ち込むことも少なくなってくるのです。
むしろ、今となっては「失敗」は人に言えるネタだとすら思えるようになっています。何も苦労もなく、なんでもスムーズにいってしまったら、全然ドラマチックではないですよね。それより、次はどうなるのー?という展開にハラハラドキドキしています。
ですから、いまだに「失敗」はあちこちで繰り広げておりますが、ネタにしよう!と、切り替えることで、落ち込む時間がかなり少なくなったのは事実です。
失敗の数は相変わらず多いですが、20代の頃のようにさほど落ち込まなくなりました。それより、何か問題が起きた時は、自分のレベルを上げるための「お試し?」または器を大きくするための「学び?」が来たと、前向きに捉えて、突き進むようにすると、かなり、ポジティブな思考に切り替えて次のステップに進むことが出来るので、これ本当におススメです。
人生にはいろんな「失敗」は付きものですから。そこに落ち込むのではなく、どう解決するか?に注力して、エネルギーをそこに注ぎましょう。一度しかない人生、失敗して落ち込んでる場合じゃない!楽しまないと!!もったいない!!!!!